Note
認知行動療法に感じていた引っかかり——道徳と倫理を区別して読み直す
公認心理師の発言を絶対的な指示ではなく価値判断として位置づけ直すと、認知行動療法に感じていた引っかかりが世界観と整合的に解消される、という整理のメモです。
過去に認知行動療法のプログラムに触れた際、自動思考やスキーマの説明には納得できる一方で、カウンセラーの一部の発言に引っかかりを感じていました。当時はその引っかかりをうまく言語化できず、「なぜそう言えるのか」という疑問だけが残ったまま終わっていました。
その後、哲学の学習を進める中で「道徳」と「倫理」の区別や可謬主義などの概念に出会い、当時の引っかかりを自分の世界観と整合的に再解釈できるようになりました。本記事では、引っかかりを感じていた 2 つの論点について、過去の受け取り方と現在の再解釈を並べて記録します。
「道徳」と「倫理」の区別の詳細は、別記事 道徳と倫理の区別 を参照ください。
本記事は認知行動療法そのものを否定するものではありません。療法の有効性は多くの場面で認められており、私自身もスキーマや自動思考の枠組みは自己理解に役立てています。一方で、療法の中で語られる発言には、技法の前提と一致しない感覚を持つ人にとってそのままでは納得しにくい部分があり、その部分を自分の世界観に翻訳することで改めて受け取り直せる、という整理を共有することが本記事の目的です。
きっかけになったのは、公認心理師の中島美鈴さんがインタビューで認知行動療法について話している動画でした。以下に引用する発言は、その動画の中で印象に残ったものです。
論点1:「想像できる範囲には限界がある」と感じる人にとっての不安イメージの具体化
中島さんが紹介する手法のひとつに「不安イメージの具体化」があります。不安になるとき、人は無意識に「こうなったらどうしよう」という漠然とした怖いイメージを浮かべて止まってしまうため、そこを止めずにあえて一番最高の結果と一番最悪な結果を具体的に想像してみる、という方法です。例として「分からないことを質問する」という場面が挙げられ、最悪を具体的に想像してみると「『そんなこと自分で調べろよ』と言われるくらいで、思ったより大したことがない」という気づきにつながる、という流れで説明されていました。
過去の受け取り方
私は昔から、自分が想像できる範囲には限界があると感じており、「自分が想像できないことが起きる可能性も十分ある」という認識を持っていました。この感覚は今も変わらず、自分が想像した一番最悪な結果よりも悪い結果が起きる可能性があると感じます。「自分の想像力」を信頼できないため、「一番最悪な結果が大したことがなかったとしても、それだけで安心することはできない」という感覚が残っていました。
現在の受け取り方
判断の基準点を「結果の予測精度」から「自分の価値観に基づく意思決定の質」に移すことで、この引っかかりを解消できる、というのが現在の整理です。
- 「一番最悪な結果」が想像より悪く、結果として道徳的に悪い行為になってしまったとしても、道徳はあくまで相対的な価値である
- 未来を完全にコントロールすることはできず、運と意志は離れがたく結びついている
- 過去に起きたことは、もともと自分には防ぐことができなかったこと
安心の根拠を「最悪を想像してみたら大したことがなかった」という結果側の事実に置くのではなく、「自分の価値観に照らして納得できる意思決定をした」という意思決定側の事実に置く、という整理になります。
最悪を具体化する作業は、行動を選ぶための材料を増やす行為としてはそのまま有効です。安心の最終的な根拠が、想像した最悪の軽さではなく、決定の質に移ります。
論点2:「必要かな」の根拠
愚痴やマウントを聞かされて疲れる、という悩みについて、中島さんは認知の見直しを提案します。「みんな仲良く、和を大事にしましょう」というルールに常に縛られる必要はなく、社会人になったら少しルールを見直すのも必要だ、という方向で話が進みます。具体的には、「いつもそのルールに縛られる必要はないのかなと。社会人になったら、少しルールを見直すのも必要かなと思います」という発言がありました。
過去の受け取り方
中島さんの「いつもそのルールに縛られる『必要はない』のかなと。社会人になったら、少しルールを見直すのも『必要かな』と思います」は、なぜそう言えるのか、その必要の有無は何が根拠なのか、という疑問が残っていました。
「必要」と言われると、それが事実として確認できる何かであるかのように響きます。一方で、何を「必要」と呼ぶかは、何を大事にするかによって変わるはずで、それを抜きにして「必要だ」と断定的に語られると、根拠の所在が見えなくなる感覚がありました。
現在の受け取り方
その必要の有無は、中島さんの価値観に基づいています。
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 事実認識 | 「みんな仲良くというルールに縛られすぎない方が、職場で生産性を上げ、自分の余力を保ちながら働ける」 |
| 価値判断 | 「生産性や自分の余力を保てることは望ましい」 |
| 結論 | 「ルールを見直すのも必要かな」 |
中島さんの価値観に基づく価値判断に、原さん(インタビューの聞き手)のように自分も納得できるなら、参考にすればよい、ということになります。中島さんの必要性に関する言及は、多くの人が共感する間主観的な意味で客観的な価値判断ではあるかもしれませんが、絶対的な価値判断ではありません。
自分の価値観に照らして、その価値判断および意思決定を採用することは、自分のウェルビーイングの向上のための倫理的に善い選択になります。納得できなければ採用しなくてもよく、納得した上で採用することも、自分の自律的な選択として位置づけられます。
ここでの「倫理」は、社会視点から没個性的に「正しさ」を判定する道徳とは区別される意味で使っています。自分の価値観に照らして自分のウェルビーイングを向上させる選択かどうか、という個人視点の評価軸です。
全体のまとめ
認知行動療法の技法は、多くの人にとって有効に機能するように設計されています。一方で、技法の中には次のような暗黙の前提が含まれている場面があります。
- 「想像した最悪 ≒ 実際の最悪」
- 「専門家の発する『必要』は普遍的に妥当」
これらの前提と一致しない感覚を持つ人にとっては、そのままでは納得しづらい部分が出てきます。そのとき、技法そのものを退ける選択もありますが、別の選択として、技法が機能するための前提を自分の世界観に翻訳し直すアプローチが取れます。
| 論点 | 翻訳の方向 |
|---|---|
| 論点1 | 安心の根拠を「想像した最悪の軽さ」から「自分の価値観に照らした意思決定の質」へ移す |
| 論点2 | 専門家の「必要」という言葉を、絶対的な事実主張ではなく、価値判断+間主観的な説得として読み直し、自律的な採否の対象として扱う |
これらはどちらも、認知行動療法を否定する動きではなく、自分の側で受け取り方を整え直す作業です。同じような引っかかりを感じている方にとって、ひとつの読み替えの例として参考になれば幸いです。