Note
決定論と自由意志——両立論
「すべての現象には原因がある」という決定論を受け入れた上で、「自分の欲求や価値観に基づいて行動を選んでいる」という意味での自律性は両立しうると考えるメモです。
決定論を採用した場合、人間の主体性や自律性も否定されるかが論点になります。本記事では、強い自由意志(リバタリアン的自由意志)は否定しつつ、別の意味での自由は決定論と両立しうるという立場を整理します。
すべての現象には原因がある
私の世界観の中核にあるのは、「すべての現象には原因がある」という直観です。哲学史的にはスピノザの議論に近い立場で、世界が決定的であれ非決定的(確率的)であれ、結論は同じになります。
| 世界のあり方 | 過去の意思決定の位置づけ |
|---|---|
| 決定的 | 必然 |
| 非決定的(確率的) | サイコロの目のような偶然 |
いずれの場合も、自分が因果律の始点であるという意味での自由意志——いわゆる強い自由意志、リバタリアン的自由意志——は成立しません。
それでも残る「ある種の自由」
強い自由意志が成立しないことから「人間の主体性は全否定される」という結論に進む必要はない、というのが両立論の立場です。決定論と「ある種の自由」は両立しうる、という見方になります。
ここで言う「ある種の自由」とは、「自分の欲求や価値観に基づいて行動を選んでいる」という意味での自由です。
行動の原因をさかのぼれば、遺伝・環境・過去の経験といった、自分が選んだわけではない要因にたどり着きます。それでも、それらの要因によって形成された「今の自分の欲求や価値観」が行動の原因になっているとき、その行動は外部から強制されたものではなく、「自分のもの」として経験されます。「自分の内的な動機づけに基づいて行動している」という感覚は、因果の始点である必要がなくても成立します。
「自分が選んでいる」感覚の発生
「自分が選んでいる」という感覚は、決定論を理解した上で意図的に信じ込むものではありません。決定論の理解を押しのけて自動的に生じる、人間の認知特性に根ざした感覚です。
- 自分の行為が因果の産物であることを理解していても、「自分が選んでいる」という感覚は半ば強制的に生じる
- これは次節の「お化け屋敷の比喩」と同じ構造で、頭で知っていても感覚はついてくる
- この感覚は恣意的な採用ではなく、人間の生物学的な認知特性として存在していると考えられる
ただし、「すべての人がこの感覚を持つ」と絶対的に主張するものではありません。この感覚がどの程度一般的かは、実験心理学のような経験的研究によって探求可能な問いです。
お化け屋敷の比喩——感情も残る
強い自由意志がなくても、犯罪加害者には怒りが湧き、親切にしてくれた人には感謝したくなります。こうした反応的態度——責任ある主体の行為に対して自然に生じる賞賛・非難・感謝・怒りなどの感情的反応——は、「弁解」や「免除」の理解で弱まる方向はあるものの、完全には消えません。
お化け屋敷の比喩でこの構造を整理できます。
| 状態 | 恐怖の大きさ |
|---|---|
| 「本物のおばけがいる」と思っている | 大きい |
| 「演技している人がいるだけだ」と思っている | 減る |
| それでもお化け屋敷の中にいる | 完全には消えない |
頭でわかっていても感情がついてこない「割り切れなさ」(感情的な自分が理性的な自分の思い通りにならない感覚)は残ります。決定論の理解は感情を消すための道具ではなく、感情の発生原因を理解するための道具として位置づけられます。
過去の可能性——思考可能性と実現可能性
両立論を取るとき、過去の出来事に対して「別の選択ができたのではないか」と考えることには、整理が必要です。
私には「現実世界は一つであり、過去の歴史は一通りである」という強い直観があります。
- 過去の出来事を振り返るとき、別の選択肢を想像することはできる
- 現時点で過去を回顧する状況では、その過去はすでに所与
- 「別の選択をした世界」は思考可能だが、実現可能ではない
一方で、「似た状況が起きたときに別の選択も可能である」という思考は、未来に備えるシミュレーションとして有益です。可能性の思考は、いつ・どの情報を前提にして語っているかで意味が変わります。
| 可能性の思考の向き | 思考可能性 | 実現可能性 |
|---|---|---|
| 過去への「別の選択もありえた」 | あり | なし |
| 未来への「似た状況での別の選択」 | あり | あり |
この区別は、過去の自分の行為への後悔の扱い方にも影響します。感情としての後悔は自然なものとして扱う一方、未来の意思決定の材料としての「別の可能性の思考」と、過去への審判としての後悔は別物として位置づけられます。
次の論点
決定論の立場を取ると、「善くあるべき」「悪い人間は罰されるべき」という道徳的命令も、絶対の根拠を失います。次の記事 道徳と倫理の区別 では、道徳の絶対性が外れたあとで、個人の倫理という別の判定軸をどう立てるかを整理しています。