Note
可謬主義と「暫定的だが強い支持」
「すべての知識は原理的に誤りうる」という立場と、それでも現時点で人権を強く支持できるという立場が、矛盾せずに両立することを整理するメモです。
前の記事 価値判断の源泉——事実認識と感情から で、事実認識と感情の組み合わせを価値判断の源泉として整理しました。本記事では、その価値判断がどこまで強く支持できるのか、可謬主義の立場から整理します。
可謬主義とは
可謬主義とは、「すべての知識は原理的に誤りうる(のちに訂正されうる)」という立場です。「絶対的に確実な知識は存在しない」と言い換えることもできます。
| レベル | 可謬性の現れ方 |
|---|---|
| 事実認識 | 再現性の高い科学的知識でも、現時点での「最良の仮説」にとどまる |
| 価値判断 | 事実認識が変われば、それに基づく感情も変わりうる。価値判断も変わりうる |
具体例として、地球が平面だと広く信じられていた時代から、球状であると認識が改まったように、社会が共有する事実認識は変化しうるものです。
価値判断のレベルでも同じ構造があります。事実認識が変われば、感情の発生パターンが変わる可能性があり、価値判断もそれに連動して変わりうる、ということです。それゆえ、本記事の立場では、道徳規範を——人権を含めて——「絶対的な規範」とは扱いません。
「暫定的だが強い支持」と「絶対的な信仰」の区別
可謬主義の立場では、現時点での価値判断と将来の更新可能性をどう両立させるかが論点になります。
| 立場 | 現時点の判断 | 将来の更新可能性 | 異なる意見への態度 |
|---|---|---|---|
| 絶対的な信仰 | 強い | 認めない | 「誤り」として矯正の対象に |
| 暫定的だが強い支持 | 強い | 認める | 「なぜそう考えるのか」を理解しようとする |
人権を例に取ると、現時点の本記事の立場は次のようになります。
- 現時点で手に入る最良の事実認識と、それに対する自分の感情に基づいて、人権を強く支持する
- 将来、「人権は認めるべきではない」という主張が説得力のある事実とともになされ、その事実認識に納得し、「人権は認めない方がよい」と感じるに至れば、自分の主張を変える
- ただし現時点では、事実認識と感情はいずれも人権の必要性を強く支持している
この立場では、人権を絶対的な根拠から導くことはできませんが、現時点の支持の強さは「絶対的な信仰」と外形的には変わりません。
区別の実践的な差
「暫定的な支持」と「絶対的な信仰」の差は、現時点での判断の強さではなく、意見の異なる他者への態度に現れます。
- 暫定的な支持の持ち主:自分の立場が原理的に誤りうると認めているからこそ、異なる意見に出会ったとき、「なぜその人はそう考えるのか」を理解しようとする動機が生まれる。相手を合理的な存在として尊重し、コミュニケーションを通じて事実認識をすり合わせようとする
- 絶対的な信仰の持ち主:異なる意見は「誤り」でしかないため、理解の対象ではなく矯正の対象になる。コミュニケーションは「相互理解を目指すもの」ではなく「水掛け論」になりやすい
価値判断の源泉が「事実認識と感情の組み合わせ」だとすると、事実認識をすり合わせることなしには、価値判断のすり合わせも起きにくくなります。「暫定的な支持」は、すり合わせのコミュニケーションを成立させるための認識論的な態度として位置づけられます。
「絶対的な根拠なし」が「弱い支持」を意味しない
可謬主義は、何かを強く支持することを禁じる立場ではありません。
- 「絶対的な根拠がない」と「強く支持できない」は別のこと
- 現時点で手に入る最良の事実認識と感情に基づいて、強く支持し、その支持に基づいて行動することは可謬主義と整合する
- 行動の確信と、立場の絶対視は、別のレベルの話
この区別は、可謬主義を「判断を避ける態度」と誤解しないために重要です。可謬主義の本来の趣旨は「判断を避ける」ことではなく、「暫定的な判断を下した上で訂正の余地を残す」ことにあります。
次の論点
事実認識と感情に基礎を置く価値判断が、なぜ多くの人に共有されうるのか。次の記事 間主観性——客観と個人の好みの中間 では、客観とも個人的な好みとも違う、間主観性という中間的な位置を整理します。